「ニンテンドー・イン・アメリカ」読書メモ(その2) 第1章 マリオの産声 [本]
「ニンテンドー・イン・アメリカ」読書メモ(その2) です。
第1章 マリオの産声 -ニンテンドー・オブ・アメリカの誕生-
・1980年当時
・25セント硬貨1枚で遊べた。
・100年近くコインを入れられてた古いエレメカ(電気機械式ゲーム機)が、次々
ビデオゲームに置き換わっていた。
・当時最強のゲームメーカー、アタリ社
→1972年、ポン。
→その後、「アステロイド」、「タンク」、「ルナランダー」とヒット。
→1980年、2本のゲームが大ヒット。
「バトルゾーン」(ワイヤーフレームの戦車ゲーム)と、
「ミサイルコマンド」(ソ連の核ミサイルを撃ち落とし文明を守り抜く)
→ゲーム産業は毎月5%増の割合で急成長(誰もがアタリのおこぼれにあずかろう、と)
・ニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)
・アタリを追随する集団から頭一つ抜け出した、異色の存在。
・当時、6人。日本ではすでに成功。
・日本の任天堂
・1889年創業。京都に本拠をおくカードメーカー。
既存のカード事業のルートを利用して、玩具事業に軸足を移しつつあった。
・当時の日本では、アーケードゲームを売る企業は多数存在。
・「パックマン」のナムコ、「フロッガー」のコナミ、「ボンバーマン」のハドソン、
「スペースインベーダー」のタイトー、など。
・日本のゲームの特徴 (クリス・コーラーの指摘)
→キャラクターの個性。分かりやすい善玉と悪玉が登場する。
(アタリの「ブレイクアウト」や「テンペスト」など、抽象芸術を現実化するゲームとは違う)
・任天堂の腕利き開発者、横井軍平
・カードの機械を修理する仕事が出発点
・「伸び縮みして遠くのものをつまめるもの」玩具 →山内溥が「売る」と決めた
・「ウルトラハンド」は大ヒット。1970年、120万個。
・その後、「テンビリオン」という立体パズル、相性を測る「ラブテスター」、
今日のルンバに似たリモコン式の掃除機などを開発。
・最新のヒット作は、携帯型の電子ゲーム。
・ゲーム&ウォッチ
・横井が、サラリーマンが電卓で遊んでいるのを見て、
「腕時計用の小さな電池で動く、携帯用のゲーム機」を思いつく。
→山内溥に運転手を命じられ、車内で相談。
・7セグメントディスプレイを独習
…7つの棒でローマ数字「8」を表す液晶ディスプレイ(LCD)を応用すれば、
簡単なアニメーションができる。
…電卓ブームで電池も安い。
・1980年、「ボール」…最初のゲーム&ウォッチ、ジャグリングゲーム、発売。
→シルバーシリーズ、5種類。
→翌年(1981年)、ゴールドシリーズ、5種類。
・任天堂のゲーム開発
・ゲームウォッチなどで成功をおさめていたので、ゲーム開発を進められた。
・カラーテレビゲーム15(「ポン」のクローンを加えた家庭用ゲーム機)も地味ながら、人気に。
・1974年の「ワイルドガンマン」、成功。競馬のメダルゲーム「EVRレース」は誤動作があり、失敗。
・初の本格ビデオゲーム「コンピューターオセロ」で復活。
・当時、横井率いる開発チームが数ヵ月ごとに新作を市場に。
→ゲーセンで「一時流行りのゲームで100円玉をかき集める」トレンドがピークに。
・山内溥
・「世界でも一流の企業になりたい」と願って止まなかった
・50代半ば、ディズニーとのライセンスの契約交渉のため渡米し、世界の
エンターテイメントの市場の広さに衝撃。
→グローバル企業の成功とは、全世界で利益を生み出すこと。
・1889年、山内房治郎(山内溥の曽祖父)は、「任天堂骨牌(かるた)」を開店。
…花札を製造する店。
…「任天堂」(=運を天に任せる)は、カードゲームの偶然を意味。
→花札は、ゲームのたびに新しいデッキを使う、博徒によく売れた。
・1949年、恒例の祖父(山内積良、2代目社長。房次郎の養子)が脳卒中で倒れ、
山内溥が21歳で跡を継ぐ
→先頭に立って、改革に取り組む。
→新しいビジネスにも挑戦。インスタントライス、タクシー会社、
部屋を時間貸しする日本独特の「ラブホテル」、などどれも失敗。
→カードと玩具店の販売網を利用した商売に集中。
第1章 マリオの産声 -ニンテンドー・オブ・アメリカの誕生-
・1980年当時
・25セント硬貨1枚で遊べた。
・100年近くコインを入れられてた古いエレメカ(電気機械式ゲーム機)が、次々
ビデオゲームに置き換わっていた。
・当時最強のゲームメーカー、アタリ社
→1972年、ポン。
→その後、「アステロイド」、「タンク」、「ルナランダー」とヒット。
→1980年、2本のゲームが大ヒット。
「バトルゾーン」(ワイヤーフレームの戦車ゲーム)と、
「ミサイルコマンド」(ソ連の核ミサイルを撃ち落とし文明を守り抜く)
→ゲーム産業は毎月5%増の割合で急成長(誰もがアタリのおこぼれにあずかろう、と)
・ニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)
・アタリを追随する集団から頭一つ抜け出した、異色の存在。
・当時、6人。日本ではすでに成功。
・日本の任天堂
・1889年創業。京都に本拠をおくカードメーカー。
既存のカード事業のルートを利用して、玩具事業に軸足を移しつつあった。
・当時の日本では、アーケードゲームを売る企業は多数存在。
・「パックマン」のナムコ、「フロッガー」のコナミ、「ボンバーマン」のハドソン、
「スペースインベーダー」のタイトー、など。
・日本のゲームの特徴 (クリス・コーラーの指摘)
→キャラクターの個性。分かりやすい善玉と悪玉が登場する。
(アタリの「ブレイクアウト」や「テンペスト」など、抽象芸術を現実化するゲームとは違う)
・任天堂の腕利き開発者、横井軍平
・カードの機械を修理する仕事が出発点
・「伸び縮みして遠くのものをつまめるもの」玩具 →山内溥が「売る」と決めた
・「ウルトラハンド」は大ヒット。1970年、120万個。
・その後、「テンビリオン」という立体パズル、相性を測る「ラブテスター」、
今日のルンバに似たリモコン式の掃除機などを開発。
・最新のヒット作は、携帯型の電子ゲーム。
・ゲーム&ウォッチ
・横井が、サラリーマンが電卓で遊んでいるのを見て、
「腕時計用の小さな電池で動く、携帯用のゲーム機」を思いつく。
→山内溥に運転手を命じられ、車内で相談。
・7セグメントディスプレイを独習
…7つの棒でローマ数字「8」を表す液晶ディスプレイ(LCD)を応用すれば、
簡単なアニメーションができる。
…電卓ブームで電池も安い。
・1980年、「ボール」…最初のゲーム&ウォッチ、ジャグリングゲーム、発売。
→シルバーシリーズ、5種類。
→翌年(1981年)、ゴールドシリーズ、5種類。
・任天堂のゲーム開発
・ゲームウォッチなどで成功をおさめていたので、ゲーム開発を進められた。
・カラーテレビゲーム15(「ポン」のクローンを加えた家庭用ゲーム機)も地味ながら、人気に。
・1974年の「ワイルドガンマン」、成功。競馬のメダルゲーム「EVRレース」は誤動作があり、失敗。
・初の本格ビデオゲーム「コンピューターオセロ」で復活。
・当時、横井率いる開発チームが数ヵ月ごとに新作を市場に。
→ゲーセンで「一時流行りのゲームで100円玉をかき集める」トレンドがピークに。
・山内溥
・「世界でも一流の企業になりたい」と願って止まなかった
・50代半ば、ディズニーとのライセンスの契約交渉のため渡米し、世界の
エンターテイメントの市場の広さに衝撃。
→グローバル企業の成功とは、全世界で利益を生み出すこと。
・1889年、山内房治郎(山内溥の曽祖父)は、「任天堂骨牌(かるた)」を開店。
…花札を製造する店。
…「任天堂」(=運を天に任せる)は、カードゲームの偶然を意味。
→花札は、ゲームのたびに新しいデッキを使う、博徒によく売れた。
・1949年、恒例の祖父(山内積良、2代目社長。房次郎の養子)が脳卒中で倒れ、
山内溥が21歳で跡を継ぐ
→先頭に立って、改革に取り組む。
→新しいビジネスにも挑戦。インスタントライス、タクシー会社、
部屋を時間貸しする日本独特の「ラブホテル」、などどれも失敗。
→カードと玩具店の販売網を利用した商売に集中。
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